Pocket

愛を受け取れない人、愛を拒絶する人

「感情に蓋をする」

「感情を感じないようにする」

これを

「情」ではない状態だと言う人がいる。

「情」ではなくなったと言う人がいる。

どこかの団体で広まってしまった考え方。

「愛」と「情」

とても便利な方便になっている。

別にその団体で言っている元々の意味自体を否定しているのではない。

ただ、

「伝えた人」も

「伝えられた人」も

ほとんど、

「未消化のまま」

流布してしまった。

それにより

いわば感情の障害が起こっている。

ある意味

一種の洗脳になってしまっている。

「刷り込み」になっている。

 
「気づき」について、何度も言ってきたが、

「気づき」は、

気をつけなければならないのだが、

割と多くの人が

この「気づき」を都合よく利用する。

「気づき」を

「自分に都合の良いように解釈」し

「利用する」のだ。

 
例えば、未消化の考え方での

「情」と「愛」
「感情を感じないようにする」

「感情でストレスを感じないようにする」

感情からのストレスをフリーにすることを

「私は「情」でなくなった」

と高らかに言う人がいる。

いわゆる「気づき」だ。

「感情を感じないようにする」

「感情でストレスを感じないようにする」

は、

「情」でないとか、

「情」が吹っ切れたとか、

そういうことではない。

「ただ、人間味を放棄する」ことで

「逃げて」「誤魔化して」

達観したような気になっている。

「人間味」

これも言い訳に頻繁に使われるから

注意しなければならないしろものだ。

 
だがしかし、

この言い訳にさえ使われるくらいのしろものを

捉えきることなくして、

「達観など出来るものではない」

本当の「愛」と「豊かさ」を得たいなら、

そんなに甘く考えないことだ。

本当の「気づき」は、「悟り」に繋がるもの。

「気づき」を「気づき」で終わらせることにより、

「自分の都合の良いように利用する」

そういう人は、本当に多い。

「気づき」は始まり。

「気づき」で解ったというのはおかしなこと。

「気づき」は、

「悟り」に繋げるための贈り物。

贈り物をちゃんと受け取ろう。

「自分を誤魔化す」ためや、

「ただ、ストレスから逃れる」ための方便にせず。

もっと、踏み込もう。

 
「感情を感じないようにする」

「感情でストレスを感じないようにする」

これで、

「情から解放された」と言うのは誤りだ。