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「知」の最強哲人、最強読書人、渡部昇一先生 逝く

先月17日、日本人の知性的財産と言っても過言ではない、
思想啓蒙家であり論客としても超一流の学者、
渡部昇一先生がこの世を去られました。

大変残念なことで、
この混迷する現代にあって、もっと長生きして、適時、
僕らの迷走に対して一喝する存在であってほしかったです。

先生のご冥福をお祈りいたします。

先生が、正統な思想形成過程で影響を受けたと思われる人物の一人、
イギリスの作家、批評家、詩人、随筆家であり思想家だった
ギルバート・キース・チェスタトンという人の著書を紹介したいと思います。

(G・K・チェスタトン)

渡部昇一先生の著作や翻訳は、
1973年にチェスタトンを翻訳した福田恆存先生同様、
正統な思想を持ち続けていくための道標でした。

チェスタトンの教養は深く、見識はあまりにも鋭い

その本のタイトルは『正統とは何か』です。

チェスタトン35歳の時に著された評論で、
今から108年も前の1909年の著作です。

この前に『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」』を紹介した時、
一条直也さんがブログに書いたレビューで紹介しました。
実はこの本についても、このブログにレビューが載っていました。

一条直也さんの「正統とは何か」に関するレビュー

こういう本のことを、不朽の名著、と言うのだと
一条直也さんは言ってますが、
僕も全く同感です。

そしてYouTubeに残されてある渡部昇一先生と
中川八洋先生(筑波大学名誉教授)との対談動画も
併せてご覧くださいませ。

この動画の中でも、渡部先生はチェスタトンのことを語っています。

この動画の19分45秒あたりからの部分を特に注目してご覧ください。

その部分に相当するチェスタトンの言説を引用したいと思います。

チェスタトンは、「正統とは何か」の中で以下のように「伝統」について述べています。

『伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、
われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。
死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、
今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。
伝統はこれに屈することを許さない。あらゆる民主主義者は、
いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。
伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。』

つまり、民主主義を、横展開させただけの着眼ではなく、
縦方向にも展開させた視点、そこにこそ真骨頂があるのです。

縦とは、先達である僕らの先輩や祖先が、
命がけで必死に生きることで
現代に生きる僕らの生活環境の基盤を築いてくれたことと、
国家の歴史と伝統と文化を守ってきた事実、です。

その事実を尊重し、
その思いや願いを推察して、
現在進行系の問題、懸案を考えようとする生き方に価値を見出すこと。

子孫、後輩、後進への義務、責務を、
深く考察しようという態度ともいえます。

また、対談相手である中川八洋先生の著書、
『正統の哲学 異端の思想』を、
渡部先生はこの対談の中で紹介しています。

中川八洋先生の著書は何冊か読んでみましたが、
この本は、やや難しめの本ではありますが、
数ある中川八洋先生の著作中の
おそらく最高傑作ではないでしょうか。

興味深いのは、この本の中の73ページに、
正統の哲学者リストと、
狂信の哲学者リストというのがあります。

僕が影響を受けた、
好きな哲学者のほとんどは
正統の哲学者リストに入っていました。

ショーペンハウエル、
ハイエク、
ウィトゲンシュタインなどです。
そしてこのチェスタトンも。

しかし、
キルケゴール、
カール・ヤンパース、
ニーチェ、
エマソン、
ハイデガーはどちらにも入っていません。

多分、この人たちは、中川先生からすると、
正統と狂信の間を行き来しているからだと思います。

僕の嫌いな
サルトル、
マルクス、この二人は
狂信リストに入ってました。(やっぱり)

表面的なものではなくて、人物の奥深い内面を、
言説の経時変化を観察し、その嘘と誤魔化しを見抜く。
中川先生は本物に対する厳しい姿勢の持ち主です。

狂人の第一の特徴は、論理的

『狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、
それだけ論理的でありうるのである。
実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。
狂人とは理性を失った人ではない。
狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。』

『大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。
かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、
矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。
人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体的に見える。
それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。
二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ。
こうして彼は、運命というものがあると信じながら、
同時に自由意思というものもあることを信じてきたのである。』

『つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、
はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。
狂気の理論家はあらゆるものを明快にしようとして、
かえってあらゆるものを神秘不可解にしてしまう。』(39~40ページ)

『想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである。』(19ページ)

現代と言う混沌とした時代、人々が正気を失った時代。
金と効率ばかりを問題にして人間性を置き去りにした時代。
その時にチェスタトンは言いたかったのだ、「幸せとは何か」と。

「君達、人間が生きるとは一体どういうことなのだろうか」と。
「花が咲き、鳥が鳴いている。これは尊ぶべき喜ばしき奇跡ではないのか」と。

若かりし昔は革命思想の持ち主ではありましたが、
保守論客に変容した西部邁先生もチェスタトンの影響を受けました。

深い教養は珠玉の一冊に出会うことから始まる

福田恆存、
渡部昇一、
西部邁、
中川八洋
こういう先生方。

言わば正統保守の論客の著作や翻訳本は、
まともな考え、思想、哲学にじっくり触れたい時、
どんなに忙しくとも貴重な時間を投資して読書するに値すると、
僕は思います。

不幸な選択をしない生活術

渡部昇一先生の翻訳解説本の中から一冊だけ選んで、
紹介したい本があります。

なぜなら、この本に書かれていることは、
読んでみればすぐ気付くと思いますが、
シンプルにして多くを語らない河合純也が言いたいことと、
まるで同じように重なって見えるからです。(ちょっと言い過ぎかもしれませんが、、、)

まるで同じことを
深い教養で語り尽くしたような内容です。

その本のタイトルは、
『自分のための人生』です。

ウェイン・W・ダイアー(著)
渡部昇一(訳・解説)

全世界で3000万人以上に影響を与えた、
ダイアー博士の世界的名著と言われている本です。

この本は、
一日一日を「自分を大事にして生きる」
そのために、
「今、ここ」から成長が始まる。
人生はもっとシンプルにできる。

誰があなたの人生をコントロールしているというのか?

これが「不幸な選択をしない」という能力だ!
これ以上「他人の期待」に従うことはない。

こういう内容がぎっしりと詰まっている本です。

その中の一部を引用して紹介します。

人生における「黄金の日々」とは?

この本の140ページからの部分です。
こう書かれています。
____________________________
人間の一生で最も無益な感情が二つある。
「すんでしまったことに対する自責の念」と、
「これから行うことへの不安」である。

そう、自責と不安は、最大の時間とエネルギーの浪費である。
この二つの間違った心の状態についてよく考えてみると、
お互いがどのように結びついているかが解ってくるだろう。

この二つは、同じ状態の反対の極として捉えることができる。

(下手な図解かもしれませんが以下の図を参考に)

 

 

自責とは、過去の行為の結果、金縛りになったままの状態で、
“今”という時間を使う事である。

一方、不安とは、未来に起こるであろう何か、
・・・たいていは自分ではコントロールできない何か・・・のために、
今の自分を金縛りにしてしまうという罠である。

一方は過去、他方は未来に対する反応ではあるが、
現在の自分をぐらつかせ、あるいは縛りつける、
という意味では同じことである。

作家のロバート・ジョーンズ・バーデットは
『黄金の日々』で次のように書いている。

人を狂気に追い込むのは今日の経験ではない。
それは、昨日の出来事に対する悔恨であり、
明日起こるかもしれないことへの恐れである。

自責と不安の例はいたるところに見受けられる。
「あんなこと、しなければよかった」と思いわずらったり、
起こるか起こらないかもわからないことで取り乱したりする人は多い。

あなたも、おそらく例外ではない

自責と不安は、私たちの文化における苦悩の表れ方としては
最も一般的なものかもしれない。

自責の場合、気持ちは過去の出来事に集中し、
自分の言動のせいで、気落ちしたり腹を立てたりする。

現在という時間を、
過去の行為に対する感情に囚われて過ごすのだ。

不安は、今という貴重な時間を、
未来の出来事に取り憑かれて過ごすことだ。

後ろを向いていようが、前を向いていようが、
結果は同じである。
つまり、現在を投げ捨てているわけだ。

バーデットの言う『黄金の日々』とは
まさしく「今日」のことなのだ。

自責と不安の愚かさについて、
彼は次のような言葉で締めくくっている。

私には一週間のうち二日だけ、
決して思い煩うことのない日がある。
恐れや不安に侵されることのない、屈託のない二日。
一日は昨日、そしてもう一日は、明日である。

「心の陰謀」に屈しない

(さらに以下のように続きます。)

私たちの多くは、
これまで自責という感情の陰謀に屈してきた。

何かを言った・言わない、
何かを感じた・感じない、
何かをした・しない、というような理由で、
「あなたは悪い人間だ」という意味のことを、誰かが言う。

言われたほうは、その時点で後悔するという形で反応する。
つまり、自責の念の製造機になっているわけだ。

不安や自責の念を覚えさせるような言葉を、何年もの間、
なぜ、受け止めてきたのだろうか。

主として、やましさを感じないのは「いけない」ことであり、
不安を感じないのは「非人間的」だと思われているからである。

それは「気にかける」という行為と関係がある。

本当に誰か、あるいは何かを気にかけているのだ、という
目に見える証拠を示そうというわけだ。

これではまるで、思いやりのある人という評価を得るために、
自分の不安にさいなまれた状態を宣伝しなければならないようなものだ。
(中略)

過去から何かを学び、
ある特定の行為を二度と繰り返さないと誓うだけなら、
それは自責ではない。(中略)

自分の過ちから何かを学ぶのは健全で、
成長には欠かせない要素だ。

逆に、自責がなぜ不健全なのかというと、
過去の出来事に関して、傷ついたり、
取り乱したり、落ち込んだりしながら、
自分のエネルギーを無駄遣いしているからなのだ。
____________________________

、、、とまあ、
こんな感じで、ズバリ的を得た文章が、これでもかと言う程に
ぎっしりと詰め込んである著作です。

河合純也が言葉少なめにシンプルに言い切っている、
その舞台裏を詳細に解きほぐしたような内容の本です。

こんなダイヤモンドの輝きを放つ珠玉の宝石のような本なのに、
アマゾンではなぜか、100円くらいで程度の良い中古本が手に入ります。

このページに飛んで、
Amazon 『自分のための人生』
なか見!検索 を覗いて目次だけでも見てください。

河合純也の言っていることとの親和性、その理由を
あなたもきっと発見することでしょう。

河合純也のフィロソフィーを腑に落とすための参考書として、
一読をお勧めします。

前後裁断の哲学

僕は20歳を迎え成人してからのある日、叔父の紹介で、
行徳哲男という、これまた凄く激しいが
感動しっぱなしで、我を忘れて泣かずにはいられない
本物の日本の哲人と出会いました。

行徳先生は、「前後裁断」ということを言ったのです。
過去と未来は、ない。
今しかない、のだと。

先生が主催する山に籠って行われる感性訓練。
“ベイシック・エンカウンター・トレーニング・コース”の修羅場で、
キルケゴールの哲学と禅の教えの薫陶を受けました。

この場は思考禁止だ、と。
そして僕は、人間として本音以外のことを表出すると
すぐに一喝されました。嘘をつくんじゃない、と。

キルケゴール的に言わせてもらえば、
僕の人生を基礎づけたのは、
キルケゴールの実存哲学と、行徳先生から教えられた、
今とここ、この場が全てという禅の教え、哲学だと、
今改めて思います。

行徳哲男、その名前こそが人物を物語っています。
先生の最高傑作ははこの本です。

「明日なんて本当にあるのか。明日生きていると誰が言い切れる。
明日なんてもともともありはしない。『今』と『ここ』しかない」

語録に収録されたこうした言葉の一つひとつが、
僕たちに生きる意味を問いかけると同時に
生きる勇気と希望を与えてくれる一冊です。

ウィトゲンシュタインからあなたへ

「これをしなければお前は罰せられるだろう」と言われるよりも、
「これをしなければお前は自分の人生を棒に振ってしまうだろう」と私は言われたい。

第二の言葉が本当に意味するのは、これをしないなら、
お前の人生は見せかけのものであり、真実と深さを持たない、ということである。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記より)

(Mr.K)