あなたは何を信じているのか?
あなたは何を信じないのか?
信じるのか? それとも、
信じないのか?
誰かの言ったことや導きを信じる場合も、
何かの存在を信じる場合も、
人や、出来事や、物事の存在、対象に対して、
「信じる」のか?
「信じない」のか?
「存在を認める」のか?
「存在を認めない」のか?
あなたは一体、どちらなのか?
両極端。二者択一。
でも、あなたはどちらなのか?
あなたが、どちらかを選ぶ時、
あなたが、どちらを選ぼうとも、
大前提となる大事なことが、一つだけある。
それは、
「あなた自身が、自分を信じ切っているのか?」
ということ。
あなたが信じれない、そういう自分が選んだ決定を、
どうして信じれるというのか?
もしもあなたが、自分を信じていない、のであれば、
選択した考え方で、結果が自分にとって不都合である場合、
多分、あなたは後悔する。
違う方を選んでおけばよかったと、、、。
私を導き、そう仕向けた、その人間が間違っていたのだと、
他人のせいにする、かもしれない。
他人のせいにした瞬間、
その人に影響され、
所詮、他人の人生を生きてしまった、ということを
自らが認めたことになる。
あるいは、本当の自分と向き合わずに、
逃げの一手で、いろいろ言い訳して、
その場を誤魔化してやり過ごす。
これも本質的に同じ行為である。
自分の行った、決定や、選択の、
その責任を取らないでいると、
自分の命を
他人に依存して生きているのと、
同じことになるのだ。
自分の人生を生きる、ということは、
自分の下した決定や、選択に、
自らが責任を取る、ということだ。
責任を取るからこそ、
自分が、自分の人生の主人公で
在り続けることができるのだ。
そういう心構えで生きることによってのみ、
他人への依存がなくなり、
他人を批判する必要もなくなる。
だからこそ、本当の意味で、
自分を成長させることができるのだ。
対象(相手となる人や物事の存在)を
信じるか、信じないか、
そんなことよりも先に、
自分で自分を信じ切れるか?
そのことの方が遥かに大事なことなのだ。
条件付きで「信じる」のは「信用」という。
担保がなければお金を貸してくれない銀行と同じ。
無条件で「信じる」のを「信頼」という。
たとえ他人と比較して
経験や知識や知恵が劣っていても
そんなことは一切関係ないのだ。
たとえ、信じた人に裏切られようとも、だ。
その時、信じた自分が間違っていたとしても、だ。
自分を信じ切る、というのは、
「信用」するレベルではなく、
「信頼」するレベルでないとダメだ。
自分を信じるとき、
自分を愛するとき、
無条件でそうすることが
人生で最も大事なことなのだ。
あなたは無条件で自分を信じ切っているだろうか?
自分のことさえ信じ切れるのであれば、
あなたが対象を、信じようが、信じまいが、
そんなことは、どちらでも構わないと、
私はそう考えている。
なぜなら、どちらを選択しても、
自ら責任を取る、という、覚悟があるからだ。
そういう覚悟の前に際して、
対象を信じるか信じないか、ということは
あまり意味を成さない。
正しいか正しくないか、を議論することと同じくらい
意味がないことだ。
自分を信じ切っているかどうか?
そのことの方が100倍、大事なことだと思う。