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あなたは、紛れもない自分を、知っているか?

「紛れもない私」とは、
一体、どのような「私」なのか?

誤魔化し ではない、
嘘偽り ではない、
偽善 ではない、

疑う余地の全くない、
明確な、
自分以外の何者でもない、

インチキ ではない、
ハッタリ ではない、
偽物 ではない、

本物の、
裸の、
覆いがたい、

そういう「私」。
イタリアの映画監督
フェデリコ・フェリーニという巨匠の言った、
この言葉に真実がある。

『私が私で生きるということは、
私が吸っている空気よりもっと大事だ。
私が私で生きることが出来なくなったら、
もう死んだ方がマシだ』

自分と宇宙、どっちが先か?

宇宙があるから自分が存在する?
そうではない。
ただ、あなたがそう考えているに過ぎない。

そんな寝ぼけたことを言っているやつは、
私が私で生きてはいない。

紛れもない私からしたら、
真実は、真逆だ。

自分が存在しているからこそ、
自分以外の、全てのものが存在する。

逆から言えば、
あなたは全知全能の神と同じ。

今、ここに、
私が存在しなければ、
宇宙そのものも存在しない。

自分が見ようとしなければ、
何も見えてこない。
何もないのと同じだ。

自分が、まず先に在って、
その自分が、見たもの、
見ようとしたもの、見えているものが在る。

自分が、見て、それと認めたものしか、
あなたの前には存在できない。

何もないところから、
あなたが、まず「できる」と、
そう思わない限り、できるものだって、できない。

全ての創造は、その「思い」から始まる。
全ては、あなたが感じ、あなたがそう思い、
あなたが作り出し、あなたが決めた世界。

目を見開いてしっかりと見ることから、逃げない。

あなたが逃げまくって、
見ようとしなければ、
恐怖はどこまでも、あなたを追いかけてくる。

見ないままにして、幻想のままに放置しているから、
あなたは恐怖に追いかけられ
付き纏われるのだ。

ちゃんと見て、その実相を触ってみて、
自分で何を怖がっているのかを感じ取り、味わって、
感謝できた瞬間に、消える。

火が消えるかのごとくに、消える。

大事なことは、ただシンプルに“見る”こと。

その方法だけが、恐怖を消す唯一の極意だ。

自分を信頼できるから、他人を信頼できる。

自分を粗末にする人間が、
私が私で生きていない人間が、
他人が他人であることを、大事にはしないだろう。

自分で自分のことが解った幅しか、他人のことは解らない。

現代人に残されたこと、それは、
何でも知っているけど、
世の中で一番わからないのは他でもない自分自身。

虚構や虚勢、
嘘と偽善。

正体を隠す仮面を被って生きている限り、
自分が誰だかわからない。

自分から遠ざかった場所から眺めても真実は見えない。

今、あなたに必要なのは、
理性や知性ではない。
自分を自分に戻す力だ。

頭をいくら磨いたって、迷いしか生まれない。
そんなことよりもっと大事なことは、
「自分を知る」そのことではないか。

人としての痛さを感じ取り、
人としての喜びや嬉しさを感じ取らせる、
そういう感受性を失ったら御仕舞いだ。

感性を鈍らせたらダメになる。

笑ったり、泣いたり、
ハッとしたり、ドキドキしたり、
できなくなったら御仕舞いだ。

あなたから自由を奪い、
笑いを止め、明るさを奪っていくもの。

体裁だけを作り、自然を遠のけ、
あなたの感涙を止めてしまうもの。

感受性微弱な、
感性の枯渇した人間に、なってはいけない。

現実逃避したら真実から遠ざかるしかない。

目の前の現実に起こる出来事から
逃げてはいけない。

全ては、そこから始まる。
ちゃんと向き合い、葛藤することから始まる。
終わった、と思うのは、あなたがそう決めつけてしまったから。

葛藤することを避けて生きようとするから、
いつまでも葛藤の中から抜け出せない。

あなたに毎瞬起こる喜怒哀楽。
その感情に、理性や知性で蓋をするな。

解った気になって
自分を作って生きているんじゃない。

そういう全てを、
俯瞰して「逃げないで見ている」自分、
素直に感じている自分を見失ってはいけない。

それこそが、
紛れもない私であり、
本物のあなたなんだ。

自分が自分で生きている人間。

自由自在とは、
自らに由って、自らが在る、そういう哲学。

だから、
自分が自分でない人間に、
本当の自由なんて、ない。

哲学とは、学ぶもの、ではない。
哲学は、「する」もの。
知行合一である。

実践で行動を起こし、
そういう生き方をすることだ。

あなたを感動させ、奮起させるような、
心底から湧き上がってくるものを、
あなたが一番大事にしなくて一体どうなるというのか。

そうさせ得るものだけが、
あなたにとっての真実だ。

ドロドロとした
あなたの心の中にある格好悪いものを、
綺麗な言葉にすり替えるんじゃない。

綺麗事から、
偽装と偽善が始まる。

物分りをよくしようとするから、
分別するから、自分と分離してしまい、
自分が見えなくなるのだ。

綺麗事で終わらせていたら、
迷いしか残らない。

あなたの埋まらない、
穴の開いた部分は、そのまま残る。

自分との葛藤を回避するんじゃない。

逃げないで、その中へ入っていくことが、
そこから抜け出せる唯一の道。

寒い時には寒さの中に入りきる。浸りきる。
正面突破しか、突き抜けることはできない。

寒さから逃げない、だから、
雪国で生きる人は、
温かみのある竃蔵(かまくら)を作り出せるのだ。

悩みがあることは素晴らしい事。
葛藤できることは素晴らしい事。
あなたが紛れもないあなたである唯一の証拠。

自分を誤魔化し、自分との葛藤を忘れた人間は、
生きることから鮮明さが消える。
そして迷い苦しむ。

紛れもない自分を、見る。

最高の誇らしい自分も、
最低のダメな自分も、
どちらも紛れもない自分だ。

自分の弱さ、醜さ、脆さ、だらしなさも全部、
全部ひっくるめて曝け出すこと、
これが本当の勇気だ。

『私に欠けていたものは、
私は今、何をなすべきかについて、
私自身が決心がつかないでいることだ。

私の使命を理解できないことだ。
私にとって真実であるような真実を発見し、
私が、それのために生き、
そして死ぬことを願うような、“生の原理”を
発見できなかったことだ。

客観的な真理など探してみたところで、
それが私にとって何の役に立つのだ。

私に欠けていたのは、
本当に人間らしく生きることであり、
あれこれ考えながらの生涯を送ることではなかったのだ。

こうしてのみ私は“私の生きざま”の展開を
私自身の上に基礎付け、
たとえ全世界が崩れ落ちようとも、
それに絡み付いて離れることのないようなものの上に
基礎づけることができるのだ。

さあ、サイコロは投げられた。
私はルビコンの河を渡るのだ。

この道は私を戦いに導くだろう。
だが私はたじろぎはしない。

私は私の手で見出した、
この道を駆け抜けて進むのだ。』

 
デンマークの実存哲学に生きた哲人。
キルケゴールの日記に記された彼の言葉だ。

彼はこの言葉を実践した生き方をし、
野垂れ死にのような最期ではあった。

しかし、彼の死後約160年経った今でも
彼の哲学は死んではいない。

むしろ今こそ、混迷の現代に生を受けたものこそ、
彼の生き方に、勇気を奮い立たせられるのではないか。

自分が自分から遠ざかってはいけない。
自分が自分に近づくほど、真理が見える。

人生を豊かにすることとは“本当の自分”を豊かにすること。

人生を豊かにするというのは、
自分自身を豊かにできるかどうかで、決まる。

 

追伸:

“本当の自分”とは、あなたの身体、肉体そのものではない。
肉体は痛みを感じるが、本当のあなたは、
痛い、と感じている肉体そのものではないと思う。

なぜカラダではないのか?

カラダの痛みと、心の苦痛は、違う別々のものだ。

そんなことはあなたが考えてわかることではない。
なぜなら、金魚1匹、作ることのできない人間に、
解る訳がないだろう。私もその一人だ。

カラダは借り物。あなたは借主。
人生をよりリアルに楽しむために
私に貸し与えられたもの、私はそう思っている。

もしも、私の魂の成長が十分であったなら、
本当は、カラダはいらなくなるような気がしている。

カラダは、生まれ変わる際に、感謝してお礼を添えて
大いなるものにお返しするものだと思う。

だけど、あなたの生命の実相は、魂。
魂は生き通し。死ぬことは、ない。
人の魂も、成長して貢献することが使命だから。

あなた自身の身体も含めて、ずっと高いところから
あなたを、紛れもない自分を、いつもしっかりと見ている自分。
その自分が、実は本当の自分のような気がする。

本当の自分がいる限り、
身体の痛みを感じることはあっても、
心で苦しむ“苦痛”は、限りなくゼロに近づけることは、
できるのだと、私は確信を持って信じるようになった。

天然自然は、すべて、リラックスした中で、バランスが取れている。
過度の緊張とか、深刻さとは無縁に、出来上がっている。

この見事なまでの恵みを、究極に味わい、楽しむために、
きっと私たちはカラダを与えられて生まれてきたのではないだろうか。