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どっちに行くかで大違い

他人に何か言われて、それが気になったら、

やることはひとつ。

「自分を見る」

他人を、いつも「評価」している自分がいたら、

要注意だ。

そんなの「暇つぶし」だ。

感想と称して、他人を評価していたら、

相手が見えない。

自分自身のことは、

「もっと見えない」

 
他人を、ただ分析をして、
「自分の解釈」にしていたら、

「自分の狭い世界」に縮こまる。

「自分が見えないまま」になる。

他人じゃない、「自分を見る」だ。

品評をしている自分がいないか?

「何気なく言っている」
「当たり前に言っている」

だから、人は、

なかなか自分には気づけない。
気づけないなら、

他人が言っていることを気にするのではなく、

自分が何を言っているかを
気にしていればいい。

他人を評価、批評、品評するのでなく、

他人の気になる言動があるなら、

「そこにこそ、自分がいる」

ということに気づくのだ。

気にいらない
ムカつく

「自分」なのだ。
「他人」ではない。

そこに「自分」が見えるのだ。

「他人」にあるのではない。

 
目線が、意識が、外に向かっている時、
自分の中心に向かえばいい。

外側ばかり見て、自分に気づけなくしていないか?

何かを言われた、
気にいらない、
ムカつく、
受け容れられないことを言われた、

そこに「反応」する自分がいたら、
モロそこに自分がいる。
相手の中にこそ自分がいる。

他人は、私と違うなどと解釈していたら、

他人を分類だけして解決したと称していたら、

「自分は全く成長しない」

他人を品評、分析して終わらせていたら、
自分の中に巣食っている自分を苦しめるものを
手放せない。

あなたの中に、
他人に感じる「嫌なもの」が残り続ける。

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